あの日僕はビルの七階にいた。
尋常ではない揺れにこれはただごとではない、何か大変な事がこの国で起こったと直感した。 そしてそれは東北で起こっていた。 都心では交通機関がストップしていたため、自宅まで五時間かけて歩いて帰った。 帰宅するなりTVをつけると訪れた事もない聞いた事もない地名の街が、濁流に飲み込まれていく映像が流れていた。 まるで実感はなく「まじかよ、すごいな」とため息をもらすばかりだった。 そしてあの日から一ヶ月後、僕はその地に立っていた。 2011年 4月8日夜~10日 宮城県 東松島市 きっかけはtwitterだった。 「個人単位でボランティアに行ってはならない」これが災害時の常識となっている。 被災地での物資や宿泊施設を圧迫してしまうからという理由だ。 果たして本当にそうだろうかという疑問を抱えているところへ、仲間を募って小規模グループで被災地入りし週末ボランティア活動を行っているという情報を得た。 以前参加した支援物資の仕分けボランティアを紹介してくれたYさんのツイートだった。 早速コンタクトをとり参加を表明した。 参加者は山屋ばかり10名ほどで、車に分乗し宮城県は東松島入りした。 山屋ばかり、つまりは衣食住を全て自分で完結できる人達という事だ。 これがタブーとされるボランティアの現地入りを可能にしている。 児童福祉施設支援の会という組織が避難所を拠点としてベースを張っておりここの指示を受けて作業する事になる。 この週から中越地震で使用されていたというプレハブが設置され宿泊が可能となった(ボランティアの宿泊を約束する物ではなく事実翌週からは避難所として利用される事に)。 金曜深夜に到着し翌土曜朝から日曜夕方まで作業した。 作業内容は主に畑に津波により流れ着いた漂着物の撤去だ。 この地区は海から離れている事もありまだ家屋は残っており(それでも床上浸水した家屋も多数)農家の方が頭を悩ませるのは海よりの畑から流されてきた大量のワラだ。 これを人海戦術とローダーと呼ばれる重機で運びだす。 こういった思い出の品は対策本部へ集める。 ひしゃげたビニールハウスも このとおりに。 鯉 二日目のこのハウスの現場で少し離れた所で作業しながら時折茫然とした表情をしている初老の男性がいた。 聞くとこの畑の持ち主の方だという。 長野出身の女性も参加しているんですよと伝えると「娘が長野に住んでいるんです」と嬉しそうに話していた。 正直皆大変な災害が起こった場所にいるという悲壮感はまるでなく、ワイワイと声をあげながら作業していた。 多分その方が現地の方への励みになるだろうと僕は勝手に思っている。 だけどふと裏手の民家を見ると水浸しになった家具を黙々と運びだすご夫婦がいた。 疲弊しきった表情の彼らの目に僕らはどう映っただろうか。 生き残った桃の木。 つぼみが出ていた。 初日の昼休みと二日目の作業前後に特に被害のひどかった野蒜、大曲を見学させてもらった。 生きてるうちにあのような光景を目にする時が来るとは思わなかった。 続く。
by yasler
| 2011-04-21 00:37
| 雑記
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